東京中野の縫製工場「辻洋装店」| 新聞掲載 上

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BLOG 2021.09.07

新聞掲載 上


先日、会長が取材を受け、9月6日付けの繊研新聞に掲載されました。

3回シリーズの1回目です。

「服づくりは人づくりの道」

都市型ファクトリーの原点

縫製業の辻洋装店は東京・中野区の閑静な住宅街に本社とアトリエ(縫製工場)を構えながら、若い縫製技術者の感性を生かした婦人プレタ向けの物作りに定評がある。「洋服づくりは人づくりの道」を社是に、来年で創業75年を迎える同社は、人材育成を基盤にした都市型ファクトリーとして存在感を発揮している。熟練のモデリストが国産プレタで培った匠の技術を生かし、相手先のイメージをパターンに落とし込んでトワルを組み、様々な素材で試作を繰り返す同社は、”実験室を抱えた縫製工場”と言える。近年では都内に工場を有することを強みに、新興DtoC(メーカー直販)ブランドへの供給を広げるなどして、今なお新しい市場領域を拡大している。

「洋服屋をやりたい」

戦後間もない1947年、辻庸介(現会長)の母、至子が中野区新井に自宅兼工場として設立したのが現在の辻洋装店の始まりだった。至子の実家は静岡・伊豆半島の河津で養蚕業を営んでいた。大正から明治にかけてシルクは日本における重要な輸出産業であったことから、日本各地で養蚕が盛んに行われていた時代だった。6人兄弟姉妹の次女であった至子は幼少の頃から蚕の餌となる桑の葉を集めるなどして懸命に家業を手伝っていた。そんなある日、至子は父から「兄弟姉妹のなかでもお前は家のために一番頑張っている。これからは好きなことをやりなさい」と言われた。そこで至子は迷わず「東京の洋裁学校に行かせてほしい」と告げ、その願いが叶えられた。至子は上京して洋裁学校で習うことだけでは飽き足らず、実際に自ら洋服の縫製を解き、分解するなどして独学で縫製技術を磨いた。この時の研鑽が、のちに縫製工場を立ち上げる際に役に立った。

戦前、至子は東京・人形町で穀物問屋を営んでいた辻米吉と所帯を持ったが、空襲で私財が消失し、中野へ疎開。そのまま終戦を迎えた。戦後復興が進むなかで、至子は「私、洋服屋やりたい」と一念発起して、47年に辻洋装店を設立し、社長には夫の米吉が就いた。その時、庸介は5歳だった。

50〜70年代にかけて日本経済は高度成長期を迎える。豊かな中間層を背景にした需要の高まりは、ファッション商品の購買にも及ぶ。辻洋装店は58年にはレディスのイージーオーダー服の製造を開始。スカートやワンピースの軽衣料品を中心に、商社を介して高島屋や三越、伊勢丹、西武など有力百貨店に納品していた。しかし、イージーオーダー服は客からの発注を受けてから生産するために、受注数量の波が大きく不安定であった。このため同社は65年から既成服の製造にシフトするとともにアウターなどの多様なアイテムを扱うことで収益の安定化を図った。このころには、文化服装学院師範科を卒業して、他の縫製工場で経験を積んだ庸介が入社する。

当時、アパレル市場では既製品のサイズ展開が充実するとともに、「ピエール・カルダン」「ウンガロ」など、海外の高級既成服がライセンスブランドとして販売を伸ばした。辻洋装店でも70年から高級既成服の製造に力を注ぐようになった。辻庸介は「特にウンガロのパンツは当時、爆発的に売れた。これを自社で一手に引き受けて生産していた」と振り返る。80年代には富裕層を対象にした”クチュールプレタ”なども出現して「作れば売れる」時代を迎えていた。このころ、庸介はイタリアのミラノやベルガモ、ナポリなど現地工場をよく訪問して現地の物作りを見て回った。「パターンを熟知したモデリストたちが合理的で良い物作りをしている。そこには技とノウハウ、知恵が生かされている」ことを知り、帰国後に自社でもこの服作りの手法を取り入れた。そして、同社は90年代には、パターンの見立てから裁断、縫製、プレスなど高級プレタ生産に必要な全ての工程を自社で行えるようになっていた。

高級プレタにかじ切る

91年に社長に就任した辻庸介は、辻洋装店を高級プレタ専門の縫製会社へとかじを切った。しかし、そのころには日本のバブル経済が崩壊。国内の縫製業への発注が一気に縮小し、辻洋装店もその例外ではなかった。国内のアパレル産業は、海外生産シフトが進み、「生産量の半分が売れれば利益が出る」SPA(製造小売業)が広がった。辻は「売れ残った商品はどこにいくのか、働いている人はどうするのか、縫製の加工賃とは何なのか」との思いを強くしていった。業界では60年代から90年代までは、製造原価率はどこも大体3分の1を設定していた。しかしその後、SPAの台頭による海外生産が進展するなかで、セールを前提とした低い製造原価率による物作りが広がった。庸介は「業界では原価率20%が普通になり、場合によっては15%まで下げたいという話もある。本当にそれが正しいのか、ずいぶん考えた」。92年には自身が病に倒れ、最悪の事態に陥った。公私ともに厳しい状況の中で庸介は「とにかくクオリティーが高く、着心地が良い物を作る方向にかじを切ろう」と決断した。

ちょうどそのころ、同社に「ジュン・アシダ」からサンプル生産の要請が入った。納期や着数、素材が異なる製品で数回の取引を経た末に先方から「服を全面的に作ってほしい」と声がかかった。生産依頼の決め手は工場の裁断技術だった。ジュン・アシダの扱うインポート生地は繊細な意匠性のために、物性が湿度などの影響で伸び縮みが激しい。そのため裁断などの生産工程における扱いが非常に難しかった。ジュン・アシダはブランドの物作りを託すことのできる、高い技術力を辻洋装店に見いだし、高く評価したのだ。

    

東京都内の高級婦人服縫製工場三兄弟の三番目
ツジゴウ


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